peno『nebula』リリースとレコ発によせて

penoインタビューは こちら
『nebula』収録曲・クレジットは こちら
視聴は こちら


『PENO「NEBULA」レコ発GIG』
11/17(土)at 南池袋ミュージックオルグ
http://minamiikebukuromusic.org


OP:19:00 / ST:19:30
ADV:2000円 / DOOR: 2300円(ドリンク別)
w/ Hara Kazutoshi, sans deer
予約はこちらまで:penoxxx(at)gmail.com

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 筆者が2000年以降に取材などで話を聞いた若いアーティストたちの口から、一体何度、『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』の名前を聞いたことだろう。スフィアン・スティーヴンス、アニマル・コレクティヴ、デヴェンドラ・バンハート、ジョアンナ・ニューサムアーケイド・ファイア、フリート・フォクシーズ、ボン・イヴェール、ザ・ナショナル、ダーティ・プロジェクターズ、グリズリー・ベア、スプーン……挙げはじめたら枚挙にいとまがないが、おもに2000年以降に活動の産声をあげた彼らとの対話を記録したインタビュー音声を文字起こししたもののなかに、「影響を受けた作品」「指針となっている作品」「参照としている作品」としてかならず『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』が登場する。もちろん、アーティストによって評価するアングルは異なるが、総じて共通しているのは「市井の人々の声が歌になっている点」だ。08年に最初のアルバムを発表したシアトルのバンド、フリート・フォクシーズのロビン・ペックノールドはこんなことまで話してくれた。「なにもぼくらじゃなくてもいいんだ。主役は歌だ。歌がちゃんと残っていくことがいちばん大事なんだよ」。
岡村詩野「ハリー・スミスの子どもたち」(『音盤時代』創刊号(2011年夏号)所収)

冒頭から長い引用になってしまったが、ぼくがこれから書くのはアメリカではなく東京のバンド、penoが2012年5月にリリースした初音源『nebula』についてである。ぼくは、この作品こそがいまもっとも聴かれるべき音楽のひとつであると確信している。
とはいえ、だ。そんな使い古されたクリシェを使ってみたところで、あらゆるレビュー、あらゆる音楽についてのテキストがそうであるように、ぼくのテキストもまた音(楽)そのものをひとかけらも記述することはできない。そして、あらゆる音楽ライターがそう感じているのと同じように、YouTubeかなにかのリンクを貼って「いいから聴け」とだけ書いて筆を置きたい気持ちでいっぱいだ。


peno「Maru」

しかし、このテキストが書かれ、いつか、どこかの、誰かが読む瞬間のために記録されていること、それ自体が重要なのだ。音楽についても同じことがいえるのは冒頭の引用文でも示した通りである。ぼくは、明日の時点のあなたにも、1年後のあなたにも、10年後のあなたに対してもいまこの瞬間に考えていることを書き残している。書く/読むのがいつなのかではなく、それがすでに書かれ、記録されて、アクセスできることの方がたいせつなのだ。

なおpenoについて、そして本作『nebula』についてはすでに音楽配信サイト「ototoy」にてバンドの実質的なリーダーであるミズタニタカツグのインタビューが掲載されている。
[ototoy] 特集: OTOTOY×disk union presents NEW SENSATION 第4回 peno
本稿は、これを事前に読んでからでも読んだあとからでも読めるように書いているつもりだ。順番は関係ない。しかし、できれば両方読んでほしい。

penoは2008年10月に結成された、アシッド・フォークないしフリー・フォークバンドである。どうせ明確な定義などできないのだから、いっそのこと言い切ってしまおう。
『nebula』は東京・八丁堀のイベントスペースである『七針』のレーベル「鳥獣虫魚」からリリースされている。「ああ、そういう感じの音楽ね」とおもったあなたも決して間違いではない。彼らは歌=声から楽器の一音一音にいたるまで、繊細で霧がかったアシッドな音像を基調としながら、「みんなのうた」を想起する美メロ炸裂のうたものポップスと、そのまま映像音楽に使用できるような情景感豊かなインスト曲をまったく平行的に演奏している。

2012年9月時点でのメンバーは

ミズタニタカツグ(ピアノ、クラリネット、ギター、ボーカルその他)
ARTLESS NOTE、シャンソンシゲルバンド、夏目知幸とポテトたち
フクシマジロウ(ベース)
→my girlfriend’s record、オワリズム弁慶、ロア
アンドウアキヒコ(サックス)
→kuruucrew、俺はこんなもんじゃない、polylis
キシダヨシナリ(ドラム、パーカッション)
トクマルシューゴバンド、スッパバンド、王舟バンドほか多数(本人によると「月に1回以上ライヴをやるのは10〜15ぐらいかな?」とのこと)
イシザカトモコ(本作完成後に加入。ボーカル、ギター)
→惑星のかぞえかた

の5人。さらにライヴや音源制作時にゲストミュージシャンが参加することも珍しくない。というかメンバー全員が別のバンドにも在籍しておりライヴに参加できないケースもたびたびあるため、結果的に編成が流動的になっている。本作にはゲストミュージシャンとしてototoy groupのギタリスト片岡敬が参加。また8月5日に七針で行われたライヴでは、上記の5人に加えてトクマルシューゴやmuffinのサポートなども務め、自身もvapour trailというソロユニットで活動している松本頼人がギターで参加した。ジュディ・シルみたいなイシザカのスモーキーな歌声がたまらなかった!

メンバー名の下の矢印に書かれているグループ名は彼らが参加している他のバンド——ゼロ年代以降の東京インディを聴いていれば、ひとつぐらい名前に聞き覚えがあるだろう——だが、これを見てもわかる通り、全員がロック、ポップス、ポストロック、フォーク、ハードコアなどジャンルのまったく異なるバンドに参加している。

ここまでの情報で、一度本作をプレイヤーにかけてみよう。bandcampなりYouTubeなりにアップされているものでも構わない。インターネット時代に生きるぼくらの特権である。
アシダユウト(本作完成後に脱退。詳しくは後述)が山本精一ソロを彷彿とさせる朴訥な、しかし力強い意思を感じさせるうたを聞かせる1曲目「nebula」から、peno唯一のアップテンポナンバーで、細野晴臣ソロのような「日本人から見た(エキゾチックな)アメリカ」を彷彿とさせるワールドミュージック調のインスト曲「March Of Pigs And Cows」までの全6曲・約28分のミニアルバムだ。うたものが3曲(nebula/maru/kaido)、インスト曲が3曲(nishibi/(Untitled)/March Of Pigs And Cows)で構成されている。
マスタリングはPEACE MUSICの中村宗一郎が担当。ただ単に「アコースティックなゆるふわ系バンドがスタジオライヴそのまま音質でご提供」では終わらせない、ローファイとハイファイの中間というか、夢と現実の間をうつらうつらと漂うような音像となっている。

penoの音楽はどう説明すればよいだろうか。マヘル・シャラル・ハシュ・バズやさかな(SAKANA)から、テニスコーツ二階堂和美などにも連なる、自由な(フリー・)フォーク音楽を連想することができるかもしれない。あるいはトクマルシューゴパスカルズのように、かつて「アヴァン・ポップ」のサブジャンルという位置付けで聴かれてきたトイポップを、より普遍的な日本語ポップスへと昇華させることに成功した楽団、と捉えることができるかもしれない。またTEASIやmuffin、ゑでぃまぁこんやジョンのサンといった日本のコアなインディフォークにも直接的な影響を受けているだろう。

しかし、こうして直接的・間接的に関連しそうなバンドやユニット名を挙げてみても、いまいちどうもピンとこない。彼らの魅力を多少なりとも言語化できている気がしない。
けっしてローファイな音づくりではないし、意図的に音程やリズムをずらすようなスカム要素を取り入れているわけでもない。かといって、おしゃれなカフェでかかりまくるグッド・ミュージックかと言われると「そうとも言えるしそうでないとも言えるし…」と口ごもってしまう。

ここで一度思考を止めて、再びバイオグラフィーに、つまりpenoとその音楽の成り立ちに戻ってみる。上で挙げたメンバーのうち、結成時のメンバーというと実はミズタニとフクシマのみである。もともとはミズタニを中心に明治大学の同級生で結成したバンドだった。

データ補完的な意味合いでもう少し書いておくと、残りのメンバーは

アシダユウト(ギター、バンジョートロンボーン、ボーカル。『nebula』完成直後に脱退。現在はyumboとoono yuukiバンドに所属)
コバヤシナオキ(ドラム。コバヤシのみ2009年7月に加入。2010年に活動休止。現在は会社員)
ジンボユウキ(ボーカル、トイピアノ、パーカッション。2010年に活動休止。現在は会社員およびミニコミ『knocks』同人)
である。

ちなみに筆者=ぼくはこの現在活動していないメンバーのうちの最後であり、初期は本作の4曲目「kaido」を歌ったりしていた(歌詞も書いた)。ただこれもデータ上そうなっているだけのことであり、加えて「結成時のメンバーがこれを書いてるから、多少なんらかのバイアスはあるかもね」という注釈を提示しておく以上の意味合いはない。

初期のpenoはototoyでのインタビューでも言及されている通り、ミズタニとアシダがそれぞれ制作していた宅録曲しかレパートリーが存在しなかった(本作収録曲の「kaido」の詞を除く、作詞・作曲もすべてミズタニ・アシダ両名によるものだが)。

またそれらも元々バンドによる演奏を想定して作曲されたものではなかった。結果的に、結成してから1年ほどの間はライヴの持ち時間約30分のうち、毎回2曲ぐらいしか演奏していなかったのだ。スタジオ練習も展開が既に決まっている“演奏”が必要な部分の確認・練習以外は、深夜でわりと時間の余裕があるのをいいことに、毎回作曲と称して遊んでばかりいた気がする。その頃演奏されていた曲のひとつが「March Of Pigs And Cows」である。

だが、この曲はイントロ・アウトロを入れても5分ほどで終わってしまう。
残りの25分はというと、ミズタニが作曲したピアノ主体のインスト曲を、ループさせたピアニカとギターで持続音をつくり、他のメンバーが各々の楽器で色を添えていくという演奏に費やしていた。そのころのテイストを残しているのが、本作5曲目の「(untitled)」である。この曲も大抵ドローン・ノイズパートを挿入して10分ぐらいは演奏していた。

しかしそれは前衛的でアバンギャルドな即興、というよりも、ミズタニの奏でる優しいピアノの旋律によって、ライヴハウス内を優しく包み込む、ドリーミーで没入感のある音の空間をいかにつくりだすか、ということを考えた演奏だった(と考えている。少なくともぼくは)。それはバンドメンバーが作曲し、完全に統御された楽曲を演奏するのではなく、鳴らされるべき“理想の音像”がまず存在し、それをこの空間に召喚する役目を担ったのがたまたまぼくらであったかのようだった。
当時のライヴ音源もいくつか残っているので、ミズタニくんは今後何かの特典として世に出すべきだとぼくはおもう。

またototoyのインタビューで、ミズタニはこの時期のライヴの反応を「お客さんも寝ていた」と自嘲的に語っているが、むしろそれは狙ってやっていたのではなかったか。観客のほぼすべてが対バンのメンバーと知り合いという、全国のライヴハウスの99%で見受けられる光景のなかで、全員がゆったりと足を伸ばして座り、目を閉じて音楽に聴き入っている状況は、いま思い返してもぜいたくな環境のなかにいたようにおもう。

一度ぐらい、「観客が眠りながら音楽を聴く」というコンセプトのイベントをやっておけばよかったぐらいだ。かつてそういった趣旨のライヴを、山本精一が六本木スーパーデラックスで企画したことがあるそうだ。たとえ誰一人観客が入らなくとも、演奏しているぼくらは音楽を聴きながら眠ることができる。それは見方を変えれば、観客の存在を想定しない、独りよがりな音楽と批判される性質のものだったのかもしれないが、あれはあれでほんとうに気持ちよかったのだ。

その後、だんだんと「kaido」や「nebula」などうたもの楽曲が誕生し、だんだんとドローン・ノイズパートは縮小されていくことになる。これが2009年〜10年ごろの話だ。この第一期編成のあいだには、トクマルシューゴバンドでアコーディオンやトイピアノなどを演奏する女性ミュージシャン、meso mesoの新作リリースパーティにオープニングアクトとして出演している(2009年12月)。
そして10年初頭にはジンボ・コバヤシが固定メンバーから外れ、キシダがサポートドラムとして参加しはじめる。さらにアンドウがバンドに合流し、第二期penoが始動することとなった。このころミズタニから「そろそろ音源を制作したい」という話を何度も聞いていた。なおレコーディングからマスタリングに至るまでの作業は、2011年を通して行われた。

それまで長期的なバンド経験が皆無に等しかったジンボ・コバヤシが固定メンバーから外れ、既に他バンドで十分なキャリアを重ねていたキシダ・アンドウの両名が加入したことによって、アンサンブルの精度が飛躍的に向上したのはいうまでもない。バンドを抜けた張本人が言うのもアレだが、このメンバーチェンジによってミズタニが思い描いた音像を、彼の言うところの「宅録楽曲の擬似再現」から「バンドによる楽曲」として表現できるという確信を得たはずだ。

そろそろ改めて本作に戻ってみる。彼らの音楽は、上で挙げたどのグループよりも「聴きやすい」。本作も気がつけばあっというまに1周してしまう。歌にしろ演奏にしろ、とにかく強調される音が少ないので、エレクトロニカアンビエント音楽のようにぼんやり・ふわふわと聴けてしまうのだ。気になってもう1周してみると、音の輪郭がはっきりしているのは、ほとんどの楽曲でミズタニが弾くピアノフレーズやアコギのアルペジオのみだということがわかる。あとはコードやメロディが決まっているのみで、極論すれば曲自体が彼の演奏だけで成り立つと言うことも不可能ではないほどだ。当たり前だがそれは他のパートが不要ということではなく、その要素こそがpenoというグループの演奏の自由度を飛躍的に高めているのだ。

また初期の楽曲から共通しているのは、音色・楽曲構成ともに非常に多くの余白があり、どんなミュージシャンが参加しようともそれぞれの個性を十二分に発揮できる余地を残しているという点である。そのため、1曲を即興込みの長時間バージョンにアレンジするのもそう難しくはない。メンバー交代に伴いうたもの楽曲のボーカリストが何度も変わっているが、まったく問題ないどころかそれらを含めて「きょうはどんな演奏になるだろう」とライヴへ足を運ぶ動機付けにさえなったりもしている。

もしかすると、penoはメンバーが全員変わってもpenoの音楽として現メンバーによる演奏と同等かそれ以上のものとして聴こえるのではないか。ぼくはそんなふうに考えている。

もちろん何人かの人間が同時に演奏する以上、やりやすい相手・やりにくい相手はいるだろうが、とてもポジティブな意味でpenoには「このメンバーがいなければバンドが解散してしまう」といったような脆さは感じられない。だが、その「脆さ」は「録音物の制作」も含め、一回性の芸術、としてのバンドによる演奏という意味において、多くの場合では魅力として捉えられている。誰の代わりでもない、彼らによる演奏だからこそ、より尊いものとして感じている。

しかし、だ。冒頭で引用したような無名のアメリカ人によって歌い継がれてきたブルースやカントリーのように“生き残る”可能性のある楽曲というのは、――マスが崩壊し無数の個人だけになってしまった現代において――こういうものを指すのではないだろうか。バンドの歴史が終わりを迎えたとしても、また別の人間による、別の歴史が紡がれていくのではないか。ぼくはそうも考えているのである。そんな可能性を感じるのは、最近のグループのなかでは正直なところ彼らだけだ。

そんな妄想にも似た考えをある種確かめていくような試みとして、いくつかアイディアを書いてみたい。
1曲ずつメンバーが入れ替わり、最後にはコアメンバーがひとりもいなくなるライヴが観てみたい。数十人による合奏で、一晩中途切れなく音楽が鳴り続けるライヴが観てみたい。全国のさまざまな会場で、異なるメンバーが同じ曲を同時に演奏する様子をUSTで観てみたい。
誰かがその場で曲を演奏すれば、それがpenoの音楽になる。その瞬間、penoは固定メンバーによるバンドではなく、限りなく概念に近い存在へと進化するのではないだろうか。

とはいえ、まだ1作目である。今後どのような方向に向かっていくのかはまったくわからない。けれどpenoは、今夜もどこかで演奏を続けている。今度はあなたの好きなミュージシャンが参加するかもしれない。その際に誰がステージに立っていたとしても、きっとあなたをうっとりさせるような、アシッドでドリーミーな音楽を奏でてくれるはずだ。